LOGIN1年生は1階、2年生は2階、3年生は3階と別れているので階段のところでそれぞれ分かれてブーイングを背中に浴びながら自分の教室へと向かう。
1日の始まりはあいさつから。教室の扉を開けて元気よく声を出す。
「おはようございま~す!」
「……あ、おはよ……」
……あれぇ?
ちゃんとみんなおはようってあいさつを返してくれたけど、なんだか元気がないというか声が小さい。
昨日はみんな歓迎してくれたと思ってたんだけど、今日は昨日の雰囲気とはうって変わってなんだか様子を伺われているような感じ?わたし何もしてないよね?
隣の席ということもあって昨日仲良くなった文香ちゃんが恐る恐るとでもいうか少し気を使ったような感じで私に近づき、尋ねてきた。
「あのね、ゆきちゃん。もし間違ってたらごめんなさいなんだけどさ……ゆきちゃんて小さいころ芸能界にいたりした?」
げ!まさかそのことに気づく人がいるなんて!昨日はバレなかったから油断してた。一瞬誤魔化そうかとも思ったけど、いずれバレることだろうし嘘をつくのもイヤなので観念した。
「あちゃー気づかれたかぁ。成長して顔も変わってるからバレることはないと思ってたのに……」
「やっぱり!朝の子供向け番組に出てたピーノちゃんだよね!」
昨日に引き続き教室内は大騒ぎ。どうやらクラス委員長の杏奈ちゃんがなんか似てない?って気づいてみんなに確認し、よく見れば確かに面影があるということでクラス全員の意見が一致したところにわたしが登校してきたのであんな空気になっていたらしい。
「そういえば性別不詳って設定だったけど、本当は男の子だったんだね!髪も今と同じで伸ばしてたし、あんまりにもかわいかったからてっきり女の子だと思ってたよ」
昔から初対面でわたしを男の子だと思った人はひとりもいない。
かわいい女の子ですね、いえ男の子なんです、あんまりかわいいから女の子だと思いましたまでが初対面の人に対する挨拶のテンプレートになっていた。
「そりゃこんな小さいころからこれだけきれいな顔してたらそうだろうねぇ。スカウトだってそりゃされるよね。すごいなぁ。あれってわたしらが幼稚園くらいの時だよね」
当時の写真をスマホで見ながら穂香が聞いてきたが、子役としての活動期間は幼稚園から小学校1年生にかけての実質2年足らずでしかない。みんなよく覚えてたな。しかもそれがわたしだと見抜いたのもすごい。
「めちゃくちゃ流行ったもん。私今でもあのダンス覚えてるよ」
「ふわふわダンスかぁ。小さいころに考えたダンスと歌だから思い出すとちょっと恥ずかしいね」
「今でも踊れたりするの?」
「恥ずかしながら完全に覚えておりまする」
わたしが一度覚えた歌とダンスを忘れることはない。そうするとひさしぶりにピーノちゃんの踊り見たい!という声があがり、他の生徒も乗っかって教室中からの見たいコールに発展してしまう。
いやいや、幼児向けの踊りをこんな歳になってクラスメイトの面前で踊れとかどんな公開処刑?そんなのムリムリムリムリかたつむり。当然ここも拒否権の行使。
「なんで~!生ピーノちゃん見たいのに」
「いやいや、幼児向けの踊りだし恥ずかしすぎるってば。アメリカで出した曲のダンスくらいなら踊ってもいいけど」
しまった。余計な事言った。
「それ見たい!アメリカに行っても芸能界にいたんだね!しらなかったよ」
「でも歌詞は英語だよ?」
ヒットしたわけでもないし、日本での露出なんて皆無に等しかったから知らなくて当然と言っていいだろう。実力不足を痛感してすぐにメディアに出なくなったし。
だけど余計な情報を与えてしまったばかりに今度はクラス全員から『英語でもいいからダンスみせろ』の大合唱。いや、ステージやスタジオならともかく教室で?
「一応スマホに音源は入ってるけど踊るとなったらここじゃ机なんかもあるし狭くて無理でしょ。授業でもないのに体育館使うわけにもいかないし時間もないし」
「それなりの広さがあればいいんでしょ?じゃあ机を片付ければ大丈夫だよね!」
え?
止める間もなく全員が一斉に動き出し、あっという間に机といすが教室の後方にまとめられた。なにその連携力。事前に打ち合わせでもしてたの?手際が良すぎて怖いんだけど。
「準備おっけー!それじゃゆきちゃん、よろしく!」
まったく熱量が高いというか欲望に忠実というか。その熱量を少しは勉強にも向けようね?
でもわたしも元とはいえプロだし、Vtuberとしてデビューする予定の身。
人前で披露することに対してためらいはないので口では仕方ないなと言いつつ、これも一種の前哨戦だと思えばいいかとスマホの音量を最大にして自分の曲をセット。
まさか日本に帰って初のお披露目が学校の教室になるとは思ってなかったけどね。
少しの静寂。期待に満ちた面々。やがて前奏が始まり、脳内に記憶されている歌とダンスはわざわざ思い出すまでもなく声が出て体が動き出す。
テンポのいい曲に合わせてのダンスは足の動きに重点を置いたストリート系。歌の曲調に合わせて踊ることを重視するわたしにとって口パクなんか論外。
脳内のイメージ通りに体を動かすだけなので余計な力も入っておらず激しい動きにもぶれることなく正確に歌い上げる。
先天的な才能に加え、子役時代から毎日欠かさずやってきたボイストレーニングで鍛えられた声量は校内に広く響き渡り、離れたクラスや違う階の教室にも届いていたようだ。
わたしの歌声に釣られて他のクラスや違う学年の人も見に来ている。
驚きと興奮に包まれたたくさんの表情が視界に入り、手が痛くなるんじゃないかと思うほどの熱狂でリズムに合わせて手拍子をしてくれている。
子役時代に神童と言われていたのは伊達じゃない。
研鑽を重ねさらに成長を続けるパフォーマンスは以前より研ぎ澄まされ、詳しくない人が見聞きしてもレベルの高さがわかってしまうくらいになっていた。
アメリカで早々に活動休止してひたすら自己研鑽をしていた成果は着実に実を結んでいる。
4分足らずの時間はあっという間に過ぎ去った。だけど見ていた人たちの熱狂はまだ冷めやらない。
曲が終わったとたんに轟いた割れんばかりの拍手は何も知らない他の生徒や教師がびっくりするほどの大音量になって校舎内に響き渡る。中には涙を流しながら拍手をしている人もいる。
「いや~やっぱ教室で踊るってのは少し恥ずかしいものがあるね」
思ったよりも大きな反響だったのがとても嬉しくはあるけど、同時に少し恥ずかしくなってきたのでそんなことを言いながら照れ笑い。
歌の余韻も冷めやらぬ中、ダンスの邪魔にならないよう距離を取って見ていたクラスメイト達が歓声とともに一斉に集まってくる。すごい、鳥肌が立ったなど口々に賞賛の言葉をかけてくれる。
「感動じだ~!」
文香、号泣!?鼻水出てるって!
ハンカチで拭いてあげながら頭をなでなで。うらやましそうな顔すんな、男子。
「いやホント、ダンスもキレッキレですごかったけど歌がマジでやばかったよ」
「英語だから意味はわかんねーけど、すごい迫力で体震えたな」
だからあんまりべた褒めされると照れるってば。
「ほら、先生来る前に教室を元に戻さないと!」
話題を逸らし、熱を冷ます意味も込めてクラスメートに呼びかけて教室の復旧を呼びかける。
そうこうしているうちに始業のチャイムが鳴り、各自自分の席に着いたはいいものの先ほどの興奮は冷めきっておらず恍惚の表情を浮かべている人ばかり。
ホームルームのため教室に入ってきた瑞穂先生も生徒の様子がいつもと違うことには気付いたようで何があったのか杏奈ちゃんに尋ねる。
「みんなぼーっとしちゃってるけど何があったの?なんかすごい拍手が職員室まで聞こえてきたし」
聞かれた当人である杏奈ちゃん自身もまだ夢見心地でいつものクラス委員としてのしっかりした姿は影もない。
「ゆきちゃんのダンスと歌がすごくて……すごかったんです」
「語彙力が死んじゃうほどすごかったのね……。杏奈ちゃんがこんなになるなんて……。先生も聴きたかったわ」
「音楽の時間が楽しみになりました」
音楽の時間のたびに歌わせるつもりですか?
みんなの前で歌うのが久しぶりだから少し張り切りすぎたかな……。苦笑するしかない。
噂は他のクラスから見に来ていた人などの口コミであっという間に広まり、昼休みにはひよりやあか姉まで知っていた。さすがに広まるの早すぎやしないか。
給食を手早く済ませ、教室の喧騒から逃れて中庭でぼんやりしているとひよりが目ざとく発見して嬉しそうな顔をしながら走ってきた。
「ゆきちゃ~ん!話は聞いたよ!今日は朝からゆきちゃんオンステージだったらしいじゃん?」
「そーなんだよ。子役時代のことがバレちゃって、クラスメートからせがまれて仕方なく」
「プロの歌声だったって噂になってたよ」
まるで自分が褒められたかのように誇らしげな様子。元とはいえ一応プロだったんですが。
子役を引退した当時からいずれはまた世間にわたしの歌声とダンスを届けたいという気持ちはあったから今でも毎日ボイトレとのどのケアはしているし、体力づくりのためのジョギングは欠かさない。
その気持ちと行動、タイミングが結実して今回まずはVtuberとしてだけど歌手としての活動を再開することを決めたのだ。
ちなみにメディアへの復帰を誰よりも喜んで応援してくれているのはひよりだ。
「ゆきちゃんかわいいから顔出ししても大丈夫だと思うし、芸能界に復帰したらまた人気出ると思うんだけどなぁ」
ひよりはわたしが子役をやっていたころ、スタジオに撮影を見に来ては目をキラキラさせて「ゆきちゃんすごーい!」とはしゃいでいたので、人気絶頂にもかかわらず突然引退したことを今でも残念に思っている。
「芸能界にいたころは嫌なこともいろいろあったからねぇ。せっかくの学生生活も楽しみたいし。それに顔出しすると安全面とか心配でしょ。ちゃんと準備するまでは素性を隠しておきたいの。だから外では配信の話はあんまりしないでね」
「準備って黒帯のことでしょ?でもゆきちゃんてばどの道場でも黒帯の人より強いじゃない。アメリカでも続けてたしなんか軍隊のなんとかっていうのにも手を出してたよね」
特に自慢することでもないと思っているのでまだ公言してないけど、わたしは合気道からはじまって柔道と古流柔術、アメリカでマーシャルアーツを習っていた。
「勝てるとしても白帯と黒帯とでは相手に与える威圧感が全然違うからね。抑止力として最初から暴力沙汰にならないようするには黒帯っていう目に見える分かりやすいものを持っていた方がいいの」
柔道も合気道ともに昇段資格は14歳からなので誕生日が1月でまだ13歳のわたしには昇段試験を受けることもできないのだ。
「そんなに強くなって師範でも目指すの?」
「まさか。目指さないよ。黒帯にさえなれれば十分。それ以上を目指そうと思ったら稽古日数が規定日数以上必要だったり大会成績とか貢献度が必要だったりするからね。そこまでやりこむつもりはないよ」
わたしは見た目がこんなんだし、歌手としての活動を優先したいという理由でどの武道の大会にも出場したことがない。合気道には試合がないが、柔道の師範や兄弟子は優勝目指せる実力があるからと出場を勧めてくる。
だけど基本的に争いごとが嫌いな性格だし別に最強を目指しているわけでもないので断っている。暴力や弱い者いじめはもっと大嫌い。わたしはわたしの大切な人を守れるだけの力があれば十分。
「わたしはひよりのお兄ちゃんとして頼りにされるだけの強さがあればそれでいいんだよ」
笑顔でそういうとなぜか腕にしがみつかれた。
(今でも十分頼りになってるよ……)
わたしの腕に顔をうずめて小さな声でぼそぼそ言っているので何を言っているのか聞き取れなかったけど、目の前にあるその小さな頭を優しくなでてあげた。かわいいなぁ。
なんか周囲からため息と尊いとかいう声が聞こえてきたけど、かわいい妹と仲がいいのはわたしの自慢なので胸を張っておこう。
周囲から見たらどう見てもイチャイチャしてるようにしか見えないスキンシップをしているうちに昼休みも終わってしまった。
午後の授業もつつがなく終わり、放課後にカラオケへ行かないかと誘われたけど、今日は稽古もあるし、何より初配信という大切な日なのでまた誘ってねと言いつつ断った。
今朝の様子からするとわたしばっかり歌わされそうな気もするし。独演会ならリスナーのみんなの前でやりたい!
リスナーさんの前で復帰祝いの唄を披露し、失敗してしまったあの日から一年以上の月日が過ぎて、わたしは二十二歳になった。 そして今、わたしはある一室にいる。 「わたしはもっとみんなの近くで唄いたい!」 そう宣言してから半年以上、わたしはリハビリとボイトレに励み、そして自分の声を完全に取り戻した。いや超えた。 かつての音域からさらに半オクターブ、広げることができたのだ。 そしてわたしはボイトレに励みながら、ある計画を実現させるためにかつての自分の考えを覆す決断をしていた。「それではその時は全面的にプロデュースをお願いするということで。利益の取り分は書面通りで構いません。よろしくお願いします」 かつて大阪で琴音ちゃんを通じて知り合った女性プロデューサー、五代さんに向かって頭を下げる。「こちらとしてはどんな条件であれ、ゆきさんに来てもらえるなら大歓迎です。でも一体どういった理由で心変わりを?」 芸能界という世界を毛嫌いし、関連するようなところとは極力距離をおいてきたわたしが突然こんなことを言いだしたのだから、疑問に思うのも当然だろう。「確固たる目的のためです。わたしが以前、脳の障害で一年以上昏睡状態にあったのはご存知ですよね?」 黙って頷く五代さん。 ネットどころかオールドメディアでもニュースになったような出来事だから知っているのは当然だろう。いや、その仕事からしてたとえニュースにはなっていなくとも、彼女ならそのネットワークで情報を得ていただろうと思う。「元々わたしは幼いころから脳の障害を抱え、余命も宣告されていたことから生きることに対して諦めの気持ちがありました。だけどそれを変えてくれた人たちがいた」「お姉さん達ですね」 意外な人から突然核心をつかれてしまったことに驚き、わたしは目を見開いた。どうしてこの人がそのことを? わたしの疑問が顔に出ていたのか、五代さんはふっと笑うと以前は見せることのなかった柔和な表情を浮かべた。「ゆきさん、わたしは何も企業利益だけを考えてあなたに声をかけたわけじゃありませんよ。わたし
「みんなただいま!」 ようやく帰宅許可が下り、無事退院となったその日。 我が家では家族全員が休みを取って快気祝いのパーティーを準備してくれていた。「「「「おかえり!」」」」 声を聞くだけで分かる、心から待ちわびていた祝いの言葉。 お母さんから始まって、家族全員とハグをした。この辺はアメリカ生活をしていた名残なのかな。 お父さんは少し恥ずかしそうにしてたけど。息子相手なのになぁ。「それで、もう日常生活に支障はないのか?」 より姉が気づかわしげな視線で尋ねてきたので、わたしは元気をアピールするために腕をぐるぐる回してみせた。「この通り、すっかり元気だよ! まだ激しい運動は止められているけど、軽い筋トレくらいなら大丈夫。日常生活の筋力を取り戻すためにも家事は積極的にやってくださいだって。だから明日からはまたわたしがご飯を作るからね!」「……!」 みんな声にならないほどの衝撃を受けている。え、わたしがご飯を作るのってマズイ?「ま、またゆきのご飯が食べられる……」 両手で口を押さえたお母さんが感涙にむせぶ。えぇ、そんなに!? かの姉とあか姉は無言で両手を天高く突き上げている。一片の悔いなし? そしてより姉とひよりに両サイドから抱き着かれてしまった。「一年半ぶりのゆきちゃんの手料理! もう今からお腹が空いてきたよ!」 明日まで待ってたら餓死しそうだね。「いかん、よだれがとまらん」 本当によだれを垂らしてしまうより姉。乙女のする顔じゃないぞ。 でもこんなに待ち焦がれてくれていたとなれば腕が鳴るというもの。明日は目いっぱいご馳走を作ろう。「でも思ったよりも早く退院できましたね」 ようやく気分の落ち着いたかの姉がオードブルの並んだ食卓につきながら、感心したように言って来た。「そうだね。若さもあるけど、それ以上に頑張ったしね」 最初は半年の予定でリハビリプログラムを組
立てるようになってからのリハビリは、想像していた以上に大変だった。 平行棒、杖、歩行器を用いて転倒防止に注意しながら、重心移動や筋力向上、正しい歩行様式を取り戻していくのは一朝一夕にできるようなものではなく、なかなか思うように動いてくれない体に苛立ちを覚えつつも地道に筋力を蓄えていく作業。 下手に頑張りすぎると逆効果になると分かってはいるけど、一日も早い復帰を願う気持ちはなかなか抑えられるものでなく、遅々として進まないリハビリプログラムにヤキモキしていた。「さすが若いだけあって回復が早いですね」 歩行訓練後のマッサージをしてくれながら、理学療法士の飯島さんがそう言ってくれる。「自分では回復が遅く感じてしまい、どうしても焦ってしまうんですけどね」 どうしても頭をもたげてしまう焦りの心。 愚痴をこぼしたところでどうにもならないとは分かっているけど、ずっと優しく指導をしてくれる飯島さんにはつい甘えてしまう。「早くおうちに帰りたいですもんね。でもね、わたしもあなたのファンだから言うけれど、待っている側からすれば焦って戻ってきて取り返しのつかない後遺症が残るくらいなら、何年でも待つから万全な状態で戻ってきてほしいと願うものですよ」 優しい手つきでふくらはぎを揉み解しながら、それ以上に優しい笑顔を見せてくれる飯島さん。 リハビリが始まった当初からわたしのファンを公言していて、担当が決まった時には飛び上がって喜んだそうだ。 そんな熱心なファンをしてくれている彼女の言葉だから信じたいけれど、どうしても不安な気持ちは拭えない。「飯島さんはそうかもしれませんけど……」 八つ当たりにも似た発言だけど、飯島さんは気分を害した気配すらなく、穏やかに話を続けた。「不安になるのも分かりますけどね。ファンを信じるのもアーティストとしての務めじゃありませんか?」 ただの弱気の吐露にも関わらず、温かい表情で返ってきたその言葉に、わたしの中の何かが動いた。 今まで明確に意識したことはなかったけれど、わたしもアーティストの端くれな
リハビリをやり始めてから比較的すぐに自力で立ち上がれるようになった。 だけど、そこからが過酷な日々の始まり。 最初は一歩二歩と歩くだけで滝のような汗をかき、心拍数も爆上がりしてしまったのでその時点でリハビリ中止。 その後も数日間はトライしては中止の繰り返しで一向に進まない。 そこで体力の回復が先決だと判断した先生の指示により、立って歩くよりも先に長時間座ることから始めることにした。 ただ座るだけと思って侮っていたけれど、すっかり体力の衰えてしまった体にはこれが存外キツイ。 スマホを触って気を紛らわせているとはいえ、最初は二時間程度で音を上げてしまった。 だけどそれも繰り返すうちにだんだん苦ではなくなっていき、半日座っていられるようになった頃にはかなり体力も回復していたようだ。 その後に始まった歩行訓練でも最初のように滝の汗をかくことはなくなり、ようやく日常生活に向けての第一歩が始まった。「今日はね、リハビリ室の端から端まで歩けたんだよ」 嬉しそうに報告するわたし。「ふーん」 なんだか気のなさそうな返事をするより姉。「あれ? なんか怒ってる? わたしのリハビリが進んでるのが嬉しくない?」「いや、そんなわけないんだけどな。ゆきがどんどん元気になっていってるのはそりゃ嬉しいさ。でもな」 なんだろう。リハビリとは関係なさそうだし、他に何か怒らせるようなことしたっけ?「ゆき、何か報告しておかないといけないことを忘れてないか?」 報告? ずっと病院にいるわたしがリハビリのこと以外で何を報告することがあると言うんだろう?「何のこと?」 本当にわからない。わたしがより姉を怒らせるようなことなんて皆目見当もつかないよ。「茜とのことだ」「ひうっ!」 突然あの日のことを突きつけられて、ビックリすると同時に思い出してしまったので変な声が出た。「なんだその奇声は。茜が自慢気に話してたのは本当だったのか……。てっきりあいつの作り話だと思ってたのに」 カマかけられた! でも本当のことだから嘘をつくのもなぁ。「それで、だ。ゆき」 改めてわたしの方へと向き直るより姉。対して被告人よろしく姿勢を正すわたし。「正妻の立場としてはだな。茜がしてもらった以上は同じことをしてもらう権利があると思うんだが」 いや、あれはわたしの方からやったわけじゃな
「みなさん、こんにちは。どうもご無沙汰してました。雪の精霊、YUKIが今日もみんなに幸せを届けるよ! とまぁかつてのテンプレ挨拶をぶちかましたわけですが。みなさん、本当に長い間お待たせしました! ゆきはこの通り見事復活を果たして今ではピンピンしていますよ。 眠りこけていたおかげですっかり体がなまってしまったので、しばらくリハビリが必要なんですけど、またみんなに歌声を届けられる日が来るのも近いです」 ひよりに撮影許可とノートパソコンを頼んだ次の日、今日の当番だったあか姉が許可を取れた情報と共に届けてくれた。 そのパソコンを使ってさっそく配信予約を取り、夕食後の十九時に配信を開始した。 配信の告知をしたのは昨日なのに、みんな余程待ちかねてくれていたのか同接は60万人オーバー。 倒れる前の50万人を大きく上回る結果となった。「たくさんの人が見に来てくれて、それだけわたしの歌声がみんなに求められているんだと思うと感無量です。変わらぬ応援にとても感謝しています」 あまりのありがたさに思わず涙ぐんでしまう。だって一年以上ものブランクがあって、それでもこれだけの人が集まってくれるのが嬉しくて、ありがたくて。【歌ももちろんだけど、ゆきちゃんの顔が見たかった】【元気そうで安心した】【ゆきちゃんの姿を見たら涙が出てきた】【ほんと、おかえりなさい!】 歌だけじゃなく、わたし自身をも待ってくれていたというコメントに、とうとう涙が溢れてしまった。 あーあ、本当にわたし涙もろくなったよなぁ。男のくせにみっともないとは思うけど、止められないものはしょうがない。「みんな本当にありがとうね。一日も早くみんなの前で唄って踊れるよう、毎日リハビリ頑張ってるんだ! だからほら、一週間でもう立てるようになったんだよ」 そう言ってノートパソコンをテーブルの上に置き、立ち上がろうとするわたし。 まだ安定性には欠けるけど、どうにか自分の足で立ち上がることが出来た。隣であか姉がハラハラしたような顔で見てるけど。【あんまり無理はしないで】【ワイらはいつまでも待ってるから】【生まれたての小鹿みたいになってるやん】【怪我する前に座って!】 うちの姉妹だけでなく、リスナーさん達もわたしには過保護だな。「これくらい大丈夫だって。なんならターンしてみようか?」 調子に乗ってターンをしよう
日々続くリハビリは、思った以上に大変だった。 まずは寝返りや座ることから。最初の内はそれすらも大変で、どうにか寝返りを打てると言った状態だった。 それから座ることも難なく出来るようになったかと思ったら、息つく暇もなく自力で車いすに乗ることを特訓。 これが想像以上に困難なことで、立ち上がろうとしても膝が笑って上手くできない。看護師さんの介添えがあってようやくといったところ。「えへへ。密着出来て幸せぇ」 一部、邪な考えで介助してくれている人もいるけれど。 一度より姉に見つかって、ナースステーションで担当替えを真剣にお願いされていた。できればわたしも替えて欲しい。 でも決して手は出させませんという言質を得て、どうにか引き下がっていたようだ。そこで納得しちゃうのね。 わたしの不安な気持ちと、あの舐めるように見てくる気持ち悪い視線からは解放してくれないのだろうか。 病院も人手不足なのはわかるけど、あんなのを特別病棟に配置して評判に関わったりはしないんだろうかと心配になる。「今まではもうちょっとマシだったんですけどね」 他の看護師がそう言ってフォローしてたけど、正直何の慰めにもなってませんよ? むしろエスカレートしてるってことで余計不安になったわ。 だけど車いすに乗って久しぶりに外へ出たのは気持ちがよかった。すっかり忘れかけていた風の匂い。 そこには微かに草木の匂いが混じり、まもなく訪れる生命が謳歌する夏の気配を感じさせる。でも今日は少し湿っぽい匂いも混じっているから、雨でも降るのかな。 以前と違って色が見えるようになったわたしは、外の景色をいくら眺めていても飽きることがない。 目を凝らせば色というのはあちこちに散らばっていて、普通に暮らしていれば気づかないようなところにも鮮やかな色が潜んでいる。 例えばビルのひび割れから生えた生命力に溢れた雑草の緑。暗いアスファルトの隙間から顔を覗かせるたんぽぽの鮮やかな黄色。 普通の人なら気づくことなく通り過ぎてしまうその景色も、今まで違う世界を見ていたわたしには物珍しい。 部屋にいてもスマホやテレビを見ている時間より、窓の外を眺めている時間の方が長いくらいだ。「なぁに、また外を見てるの?」 今日はひよりの番なのか。「うん、今日も外の景色がキレイだからね」「やっと見えるようになっ
病院から帰ったころにはすっかり深夜だった。 家族のみんなはもう就寝してしまっている。よかった。 正直既に全身が痛い。やはり全力で動いたことのツケがしっかりと回ってきている。 歩くだけでも辛い今の状態を、誰にも見られずにすむのはありがたい。 なんとか自分の部屋にたどり着き、着替えもせずそのままベッドに倒れこんだ。 目を閉じると浮かぶのは姉妹たちの怯えた表情。まさかわたしがあんな顔をさせることになってしまうなんてね。 自嘲気味に笑いながら、自分の覚悟を決める。 明日、みんなに伝え
「なんにもねーよ」 うん知ってた。より姉ならそう答えるよね。 文化祭が終わったその夜に何かあったのかと聞いてみたけど返ってきたのは不機嫌そうな答え。 あれだけ来たがってた文化祭に来なかったのもそうだし、今の態度を見ても何かあるってバレバレなんだけどなぁ。 家族に心配かけまいとする気持ちは分かるけどね。 そんなとこだけ姉弟で似なくてもいいのに。 ここは作戦変更をするしかないだろう。 幸い明日と明後日は文化祭の振り替え休日。 名付けて『より姉の秘密大暴露作戦』発動だ
より姉が知らない男を追いかけて走ってくる。 追いかけられている男はなんだか嬉しそうな顔をしている。でもなんか目が血走ってて怖い。 しかも近づいてきているのに勢いが衰えない! まさか飛びついてくる気か!? 予想的中。その男は両腕を広げてわたしに飛びかかってきた。 条件反射って怖いね。 脳が勝手に不審者と判断したのか、わたしは懐に潜り込みひじを男の腹部にめりこませた。そのまま勢いを利用して巴投げの要領で後ろにポイ。 もんどりうって背中を床にたたきつけられた男はそのまま腹と背中を抑えて悶絶。
配信が終わってリビングに戻ってきた。 姉妹たちもしっかりと配信を見ていたようで、呆れたような顔で琴音ちゃんを見ている。「おかえり。琴音、ゆきの配信に出ちゃって本当によかったのか?」 より姉が心配して声をかける。あれだけ敵対視していたのにこういう時は本気で心配してあげる。それもより姉だけじゃない。「琴音ちゃん、事務所に連絡した方がいいんじゃないの?」「そうですよ。騒ぎが大きくなってからより先に報告しておいた方が対策も立てやすいでしょう」「報連相、大事」 姉妹それぞれが本気で心配